「当事者意識」とは具体的になにか〈知床遊覧船沈没事故を受けて考える〉

当事者意識 column

昨日、札幌の実家の母と電話していて「あなたが子供の頃に家族旅行で知床遊覧船に乗ったね」という話になりました。そんな気はしていたけれど、やっぱり。
(どの会社だったかまでは覚えていません。)

今回のブログは普段のブログとギャプが激しいけれど、最近最も考えさせられた出来事でありアウトプットしたいテーマでした。

知床遊覧船の社長の会見をLIVEで見ていましたが、その時に感じたモヤモヤ「当事者意識」の欠如とはなにか、について言語化します。

「当事者意識」の欠如という批判。どうすれば良かった?

国土交通大臣は知床遊覧船社長の会見について「当事者意識が欠如していると感じた。」とコメントした。その他報道や世論も同様の意見に溢れた。

そこで湧いた2つの疑問。

1つは、「当事者意識」の欠如とはなにか

この社長のどういった部分が多くの人々にそう感じさせているのか。報道の多くは感情的・感覚的な伝え方で、言語化はあまりされていなかった。

もう1つは、「じゃあどうすれば良かったのか」ということ。

これは私の思考回路のクセなのだけど、「批判と解決策の提示はセット」という考え方をする。

批判するというのは至極簡単だし、人間はとかく批判しがちだ。

でも批判してるだけの人はなにも生まない。

批評家や評論家になりたいなら批判してればいいけれど、そうじゃないなら、批判するからには解決策の提示がセット。

誰に言われた言葉かは忘れたが、自分の中で腹落ちしたので私の中に残った言葉。

おそらくはリクルート時代の上司か先輩。こういう本質的な会話ってだいたいリクルート時代の熱苦しい×頭の良い先輩たちに言われたことが多い。結局残っているからさすがという感じ。

そして先に書くと、この思考回路って「当事者意識がある」と思いませんか?

批判するなら解決策の提示までセット、そう言える人って当事者意識があると私は思う。

そもそも当事者意識とはなにか

私がこの「当事者意識」というワードに引っかかったのには理由がある。

リクルートで営業をしていた頃、毎日のように言われ、怒られ、煮詰まるほどに考えたワードだった。

「それって当事者意識が足りてないんじゃない?」
「当事者意識持って向き合ってやりきったのか!おら」

日常的にそうやって飛びかかってくるワードだったので、こちらも必死である。当事者意識とはなにかについて100回は考えた。辞書も引いた。

辞書だと「自分自身が、その事柄に直接関係すると分かっていること。関係者であるという自覚。」

あるんだけどな、本気でやってるんだけどな。

そこまで悩んでいる時点で、実際私は当事者意識が元々ある方だった。普段から問いかけて日常的に確認し合う風土の中で、いちいち考えていた。

私の場合考えすぎて、「当事者に本当にはなれないこと」に悩んだ。

どういうことかというと、いくら営業先の社長に「御社に稼いでいただくために役に立ちたい」と言って頑張っても、もしその会社が潰れたとて、私は痛手を負わない。職を失わないし給料が減るわけでもない。クライアントを1つ失うだけで代わりの営業先なんていくらでもあるというのが、悲しくても事実。

厳しい社長はそれを真っ向から言ってきた。「あなたはうちが潰れたって別に困らないものね、こっちは必死なんだよ、従業員の生活背負ってんだ!」と言われたことも何回もある。

お前とは違う。同じ気持ちになんかなれるわけない、というのが全面に出ていた。

まだ若かったのでその一言で泣いたし、報われなくて悲しい気持ちになったのを覚えている。

そういうのを経て結局は、「相手になにを言われたか」じゃなくて「私が相手のためになにをしたいか」の自分軸で仕事をするようになり、それが私の芯を強くした。

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ここで私の思う当事者意識とはなにかを言語化する。

「可能な限り相手の立場に立って物事を自分事と捉え、責任を持って行動すること」

“可能な限り相手の立場に立って”という部分、先ほど書いたように、自分は他人になれないし同じ気持ちになど結局なれない。違う人間だから。

だけど、だからこそ、可能な限り相手の立場に立とうとしなければならないんだと思う。なろうと思ったってなれない、想像するしかできないんだから。

今回の報道で知床遊覧船の社長は「どこか他人事のよう」と言われていた。その他人事感がどこから来るのか。

可能な限り相手の立場に立って」物事を自分事として捉えていないからである。

彼が当事者社長というのは紛れもない事実だし、会見できる立場の人は彼しかいないし、そうして前に出ている時点で自分は対応をしている、ともしかしたら思っているかもしれないが、当事者意識はそこじゃないのだ。

それは当事者意識じゃなくてただ単に当事者であるから対応しているという事実なだけ。

起こった事象に関わる相手の立場に立って考えられることが求められている。

知床遊覧船の社長が最も向き合わなくてはならない相手は被害者と被害者家族。必要だったのは、被害者と被害者家族の立場に立って自分事として捉えることだと私は思う。

会見のLIVEを見ていて感じたモヤモヤはそこだった。

この人、相手の立場に立って考えていない。

もし相手の立場に立って考えていたら、「命を奪ってしまったことへの謝罪もしくは謝罪なんかで済まされるようなことではない」という態度が最も強く押し出されるはずだから。

なんてことをしてしまったんだ、もし自分の大切な家族が被害者だったら…もし自分自身が被害者だったら…という思考が見えない。

報道で批判されていた、会見冒頭の「お騒がせして」発言もまさにこの要素。どっち向いて言ってるのかということで、記者たちや世の中にお騒がせを謝罪してる場合じゃないというところが人々の怒りをかっている。

言葉尻とか言い回しとかじゃない、向く方向を間違えているということだ。

じゃあどうすれば良かった?

この世で最も取り返しの付かないものは命。一度失ったら戻ってこない。だからこの社長がどうしたところで本質的に意味はない、取り返せないのだから。

どうすれば良かったかというと、どうしたって良くない。

ただ、被害者感情を逆なでするような態度は避けるべきだった。そのために取るべきだった態度を当事者意識の観点から考えるとこうなる。

繰り返しになるが、一貫して「可能な限り相手の立場に立って物事を自分事として捉え、責任を持って行動する」必要がある。

最初に被害者家族に自ら連絡を取り、なにを望むかを聞く。罵倒されるかもしれない、殴られるかもしれない、それでも、自分にできることがなんなのか、最も向き合うべき相手に直接聞く。

むしろやり場のない怒りをぶつけられる相手、という役目くらいしかないのだから、それを受け止めるべきだと思う。

その後も被害者家族に望まれたことをする。事件の詳しい経緯を求められるなら全力で調べてスピード感を持って伝えていく。

遅さというのも当事者意識のなさからくる要素だ。人は優先すべきと自分が思っていることへのレスポンスは早い。

あとは、逃げないこと。

逃げの姿勢も当事者意識のなさからくる要素である。相手の立場ではなく自分の立場を守るのに必死になると逃げたくなる。逃げたいという気持ちが言い訳を生み、許されようとばかりする。

こうして具体的に紐解いていくと、当事者意識とはなにかが見えてくるのではないだろうか。

土下座がどう、とかいう話がいかにくだらないかが分かる。

まとめ

私は自分で事業をやることをけっこう考える。そこでいつも怖いなと思うのはまさに今回テーマにしたような事態。事業責任者というのは、責任を取るためにいる。

若い時にリクルートの営業という立場でたくさんの中小企業の社長と会えたおかげで、その厳しさを目の当たりにしたので、非常に怖いことだと思っている。

例えば誰かを雇うだなんて、人の人生を背負うという恐ろしいことだと思っているし、自分は責任を取るべき立場に立てる器なのだろうかということはよく考える。

そういう思考もあって、今回の事件にとても考えさせられた。

私も自分が経営者じゃないし、今回の社長のような事件に出くわして対応したことももちろんないし、自分を棚上げして言っているのでただの世論の一部。

だけど、批判だけで終わらずに、じゃあどうすれば良かったのか?まで考えたいとは思う。

「批判と解決策の提示はセット」という思考回路で物事を考えることはとても有意義だと思う。

当事者意識のない人を批判するなら、自分が当事者意識があるのかは見つめ直したいところ。

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